2017.1.24

海を越えて新たな大地を目指す者

週末、映画『沈黙 〜サイレンス』を観に行った。遠藤周作の原作小説を、巨匠マーチン・スコセッシが映画化したもので、封切り直後に見ようと決めていたのは、他の人のレビューを知りたくなかったからだが、まあ、それはどうでもよい。

映画のレビューは傍に寄せて、その直後からこの作品の題材である「徳川、キリスト教伝来、宣教師、長崎、ポルトガルやスペインによる大航海」という時代に起きた一連の歴史を理解しておきたくなり、関連する書籍を探す中で出会った一冊の本に書かれていたある真理に出くわしたことを書きたい。

 

漁師にとって海は、「板子一枚 下地獄」という死と隣り合わせの世界だが、大海を渡る航海者には、まさに命を捨てる覚悟がいる。命を賭けてでも手に入れたいものがその先になければ、人は大海原には出られない。一度地獄を見た者だけが、陸の者には決してできない何かを手にすることができる
(出典:『みんな彗星を見ていた』  著 星野博美)

 

 

特に「命を賭けてでも手に入れたいものがその先になければ、人は大海原に出られない」という箇所が妙に響いた。
実際その通りだと思う。

 

このフレーズには

当時大海を渡った航海者は、大まかに分ければ征服者、商人と航海士、そして宣教師だったが、命を捨てて何かに賭けるという意味において、この三者はよく似ている

 

と続き、深く頷かざるを得ない。
その通りだからである。

CantinoPlanisphere

この本(『みんな彗星を見ていた』)は非常に面白く、6477中の現在2626ページ(Kindle)だが、あと2日ほどで読み終わるだろう。歴史好きでなくても一読をお薦めしたい。
今読んでいる箇所は、徳川が通商の相手国をオランダ一国に絞るのかどうか、政治的駆け引きの瀬戸際のところで、歴史の教科書上の朱印船貿易とか、出島とか、横須賀にある「安針塚」とかが急にリアルな感情を伴って蘇ってきている。

力のある文章はどんなに長くてもぐいぐい引き込まれる。
逆に途中で退屈だと感じるようなら、それは筆者に力量がないことを意味するだろう。
(短くて、簡単に読んでさっさと理解してもらう文章はネット発信の鉄則だが、長くても読んでもらえる力量を身に付けたいものである。世の中の全てがそんな短時間にさっさとまとめられるような単純なものばかりではないからだ。単純化されたものの中からは、抜け落ちてしまう大切なこともあると思う)

 

さて、本の主題は大航海時代。ざっくりと乱暴に言えば、スペインとポルトガルが海に線を引いて、「こっち側は俺らのもの、そっち側はお前らのもの」と勝手に「決めて」世界あちこちを我が物にしようと頑張っちゃった時代である。
ポルトガルは東回り、スペインは西回りの航路をとって覇権を競った。
Explos日本にやってきた宣教師はといえば、ヨーロッパからまずフィリピン(スペイン領)かマカオ(ポルトガル領)に渡り、そこを中継地点として派遣された。
今、フィリピンというその国名を口にするとき、植民地化されたこの時代のスペイン皇太子フェリペ2世から名付けられたことを認識している人はどれぐらいいるのだろう。

征服者、商人、宣教師、、、、すべての「夢」を乗せた船が海を渡った時代。すべての当事者が、生き延びようと必死だった。攻めるも守るも命がけだった。

その線上に、今、わたしたちが暮らしている。わたしたち人類は全員もれなく、「生き延びた者の末裔」なのだということは、先日読んだ『サピエンス全史』の中で唸った箇所である。ならば、生きている者の仕事をしようではないか。

 

今日の記事はここまでが前振りである。

今、村式では住吉と小池が出張に出ている。行き先は、その「フィリピン」。

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村式は新たな航海に出ようとしている。
http://ville.jp/works/murashiki

大切なことは、この航海が「征服するため」ではなく、ましてやどこかひとつの国、ひとつの人種、ひとつの職業、ひとつの会社が「生き残るため」などでもなく、過去を越えたあたらしい世界を作りたい、その大きな目的のための冒険だということを伝えたい。

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明日は在マニラアメリカ商工会議所でのプレゼンが待っている。
登壇する住吉に大きな声援がいただけますように、神に祈ってわたしは読書に戻る。

amchan

では、お先に失礼します!

この記事を書いた人

村式広報部

村式広報部