「ダイバーシティについて考えてみて!」
というお題を投げたら、イカもミバも一生懸命考え始めた。
せーの!で記事にしたら、イカは、「ダイバーシティ」という定義を紐解いて、それを忠実に実行するってどういうことかという記事を書き、ミバは「ダイバーシティ」という定義先行で走っても意味ないじゃん、という記事を書き。
おもしろいねえ。
イカが「わたしとミバでは言ってることが真逆なんですけどいいんでしょうか」と困惑した(笑)。
わたしの答えは「いい。それがすなわちダイバーシティってことなんじゃないの?」
ということで、そんなもんどっちが正しいアプローチなのかってのは、今決めることではないよってのが結論。
ダイバーシティの受け入れに真剣に取り組むにあたっては、何がダイバーシティで、何が受容されるべきか、逆に受容されるべきでないのはどんなことかを見出していくプロセスも含めて公開するのもいいと思う。
企業としてのゴール(ダイバーシティを受け入れた結果)として、「成果重視」なのか「意見の多様性重視」なのか「個人の幸せ重視」なのか、、、、いやいや、実はそれ社会全体の話でしょう。
社会に通例として蔓延している、イミフな固定観念を取り払って、みんなそれぞれが気持ちよく過ごせるようになったら、結果的にその方が「いい成果」に繋がるんじゃないの?
という実験。
(↑diversityで画像検索したら、こんなのが出てきた。多様性ってこと????)
だいたいわたしに言わせりゃ、人はみんな大なり小なり「変」だと思う。大抵、みんな心の奥底に何かあるし。
「何か」は見ないふりをして生きていけるんだけど、年をとるに従って「何か」も大きくなって、蓋をしようにもしきれなくなり、克服できない壁になったりしてる人は多い。
それが高じて病気になったり。
おおよその場合、みんな「自分は普通」という視点に立っていて「あの人はおかしい」とか「あの人は変」とか言う。だけど、本当はそんなのとるに足りない「違い」なんじゃないかしらね。
必死で「普通枠」に入りたがっている人たち。そーゆーのにわたし時々、ちょっとウケることがある。
自分は「普通」とか「まとも」と思い込むことによって、単に安心したいだけ(自己承認的な)なんだと思うけど、反面、普通でいなきゃいけないっていう思い込みが自分を縛っていることも忘れちゃダメよ。
だいたい、「普通」の基準なんて、コロコロ変わるわけだし。
あと、「信念」ていったらなんだか素敵そうな響きに聞こえるけど、しれっとした目で見たら、ただの執着とか思い込みでしょそれ、みたいなこともある。
それさー、本当に必要なの?みたいな「こだわり」とかね。
そーゆーのがあるから人間はややこしい。
「変」同士が「変」を隠して「普通」を装って付き合おうとするからおかしなことになる。
ところでわたしはややこしいことが嫌いだから、逐次整理したくなる。
右脳で受けて、左脳で出す。
わたしはてっきり「ロジカルなアウトプット」だと思っていたんだけど、ある人がわたしの思考を「物流倉庫に似ている」と言った!
整理された列があって、そこにコンポーネントがいっぱい並んでいる。どこが空いたら、どこのものがどこに移動する、みたいになって動いている。
それ、ロジックというより、ロジスティックじゃねえか!!!!!!
というところで目からウロコが落ちた。実にスッキリした。
(どうでもいい情報)
どうでもいいついでにわたしが自覚している自分の「異常」の話。
朝、着ていく服を決められない。
出社時間が決まっていた時代は、対策として前夜に着る服を決めることにしていた。
朝は本当に脳が動かないから、どうしていいかわからず、クローゼットの前で1時間ぐらいかかってもまだ決められないという感じ。それで遅刻する。
前夜に決めても、翌日雨だったりで変更する場合は、やっぱり決められないから遅刻する。
(実にどうでもいい情報)
これ以外にも異常ネタは死ぬほどあるんだと思うけど、前述の通り人はみんな異常だと思っているから、全く気にしていない。
という異常。
そうそう。ダイバーシティね。
diversity
イタリア語ならdiversita’。「違い」っていう名詞。「違う」っていう形容詞ならdiverso。
(どうでもいいミニ知識)
だけど、人なんかみんな違うって、当たり前の話なんじゃないのかしらね?
みんな違うからコミュニケーションをとろうとするわけよね?
ではこの辺で、失礼します!